価値観 [一般]
夫婦は多くの時間を共にすることが多い。
従って、多くの事に対して、それぞれの価値観が問われる。
しかし、必ずしも全ての事について同じ価値観を持たなくてはならないという訳でもない。
夫婦であっても、一生分かり合えない価値観だってある。
ただそれが、離婚の理由になる価値観の相違であるか否かというだけだ。
つまり、多くの事象に対して、いくつかの大事な部分だけ同じ価値観を持っていれば、離婚する必要はない。
それにしても芸能人は本当によく離婚する。
価値観を同じにする難易度は、何人がその価値観を共有するかということと、共有する対象の数とによって決まる。最も価値観を共有しづらい状況は、多くの人が多くの事象に対して価値観を同じにしなくてはならない場合だ。
夫婦は非常に多くの事象に対して同じ価値観の共有を要求される。しかし二人だけの話なので、難易度は中といったところ。
逆に何か一つの事象をターゲットに集合したグループは、共有すべく価値観は限定されるが、多くの人が共有しなくてはならないので、これもやはり難易度は中。
私が所属している玉名トップランカーズ(9人制バレーボールクラブ)について考えてみる。
玉名トップランカーズの目標は、全国大会ベスト4以上。この目標は全員がYesと答えると思う。しかし、それに対する価値観は人それぞれ違う。
既婚か未婚か、仕事の内容、これまでの生い立ち、ボールを触ってきた数、年齢、その他、多くのファクターが個人の価値観に影響するのだから、目標が同じでも価値観が違って当然だ。
しかし、そこで履き違えてはならない大事な点がある。
それは、全国大会ベスト4以上というのは、チームの目標であると同時に個人の目標でもあるという点だ。
それをしっかりと踏まえて、この目標に対する価値観を持たなくてはならない。
私自身、時々それを忘れそうになる。
即ち、チームの目標と個人の目標にズレが生じる。
チームの目標 = 「全国ベスト4以上。」
個人の目標 = 「みんなとバレーボールをする。」 「目立ちたい。」 「友達作り。」
という感じに。
上記の例における”個人の目標”は、悪いことではないが、目標とは言えない。
そして、口に出してそれを言う人はいないだろうが、実態がそうなっている場合はしばしばある。
そうなれば当然、メンバー間の価値観にもズレが生じる。
ただ、それがチームだ。
だから、面白い。
完全に価値観が一致することはあり得ない。あり得ない事を話してもしょうがないが、もしそれができればチームはチームではなくパーソナルになる。
バレーボールはチームプレー。パーソナルになればその魅力は減る。
そしてチームは夫婦ではない。
夫婦はパートナーとの関係であるが、チームは ”個人とチーム” or ”個人と多数” の関係だ。
そこにチームの逃げ道がある。
逃げ道はあることを知って、使わないようにすることが望ましい。
ちなみに、夫婦の逃げ道は離婚だ。
離婚という逃げ道があることを理解し、その逃げ道を使わない方法を考える。
そこに時間を掛け、試行錯誤する価値は大いにある。
それにしても芸能人は本当によく離婚する。
男男女女格差社会 [一般]
「安定収入の個別差が大きい社会。」とでも言おうか。
昨年のリーマンショック以降、いわゆる「派遣切り」を一つの象徴に、非正規社員の雇用問題は日本社会の大きな問題となっている。
一部の政治家は、今日の問題を築いた根源は、小泉改革にあると説く。
小泉改革、その中でも派遣に関するところ、即ち製造派遣の解禁が大量の非正規社員を生み出し、不景気に陥った結果、それらの人々が職を失ったという説だ。
ではもし、この小泉改革がなければ、大量派遣切りはなかったのかだろうか?
答えはYesだ。
小泉政権時代の派遣法改正がなければ大量派遣切りはなかった。
と、言うよりもあり得なかった。
なぜなら、製造業への派遣は法律で禁止されていたのだから、派遣切りの対象となった製造業の派遣社員というもの自体が日本には存在しなかった。
即ち、派遣切りという言葉自体がなかったと考えられる。
質問を変えてみよう。
もし小泉改革なければ、今日のように多くの人が職を失うことはなかったのだろうか?
答えはNoだ。
小泉改革がなくとも、多くの人が職を失うことになったと思われる。
なぜなら、派遣法改正が世界不況を生み出したわけではなく、また派遣法改正前後で変わったのは契約書の表題だけだからである。
では派遣法が改正され、製造派遣が解禁される前はどのような状況であったのか。
今日、派遣をやっている会社が下請け企業として親企業の中で仕事をしていた。
但し、契約が請負契約であるというだけで、その実態はほぼ派遣。
いわゆる「偽装請負」状態だ。
簡単に請負と派遣の違いを説明する。
請負=下請け企業は、元請企業から注文を受け、モノを作り、その対価として収入を得る。
派遣=派遣会社は、親会社に労働力を提供し、その対価として収入を得る。(期間の制限あり。)
あまり、この手の問題に興味のない方にはピンと来ない話だろう。
詳細について知りたい方は、お手数でも各位で調べていただきたい。
何はともあれ、偽装請負とは請負契約を結んでおきながら、実際は派遣と同様に労働力を提供して収入を得ている、即ち人夫貸しによるピンハネを言う。
小泉政権による派遣法改正以前は、このようなピンハネ企業が山ほどあった。
※余談だが、今でも偽装請負は横行している。またそれを厚生労働省は取り締まり切れていない。法改正に従い真面目に派遣をやっている企業の方が馬鹿を見ているのが実態だ。
それが法改正により合法的な派遣として取り扱われ、「派遣切り」という結果を招いたわけだが、言葉が違うだけで派遣法の法改正がなくても「下請け切り」という名で、今日と同様の状況になったことは容易に想像できる。
即ち雇用問題の根源は派遣法の改正ではなく、サブプライムローンに端を発し、リーマンショックにより表面化した世界的不況にあると言える。
しかし格差問題となると話は別だ。
格差問題は小泉改革の前後で比較しても大した変化がないように感じる。
この問題こそ奥が深いのだが、一つのキーワードとしてグローバル社会という言葉が思いつく。
日本を中心として狭義にとらまえると、中国、韓国等、日本と比較して賃金水準の低い国と同じ製品で競争しなくてはならないという状況。
人件費で大幅に差をつけられている(つけていると言うべきか?)日本は高い技術と品質で対抗するしかない。しかしその部分もかなり迫られている。
となれば、ある程度は日本も人件費で対抗するしかない。
しかし正社員の給与を下げることは難しい。
では正社員を雇う代わりに賃金の安い下請け企業を使おう。それが派遣だろうが偽装請負だろうが知ったことではない。あわよくば、外国人だって使っちゃおう。もっと安いぞ。
ここまで来ると、「誰のための日本で、誰のための仕事で、誰のための円なのか。」、ということを置き去りにし、株主や投資家のために敢えて格差を作っているようにすら見える。
一方、仕事の供給量と労働人口のバランスがこれだけ崩れているのに、更に労働人口を増やそうとする動きもある。
即ち男女協働社会化である。
テレビ等で、特に女性アナリストの方が、声を大にして言っている。
「女性が働き易い環境づくり。」 という事を。
この言葉自体に反論はない。
しかしその前提となっている条件が気に食わない。
女性アナリストの方々が言っている「女性が働き易い環境」とは、男性(パートナー)も働いている上で女性が働き易い環境を意味する。
即ち、「夫婦共働き」がし易い環境の構築。その事を一生懸命考えている。
しかし私は言いたい。
日本の将来のことを考えたり、評論するのが仕事なら、
”夫婦のどちらかが働けば十分だという社会の構築”
という事をもっと真剣に考えろ、と。
夫婦のどちらかが働けば十分な収入を得られ、どちらかは育児と家事に専念する。
働くのは夫でも妻でも良い。二人で話し合って決めれば良い。
もちろん、二人ともどうしても働きたければ(お金のためではなく)、働けば良い。
これが本当の男女平等だ。男性社会だった所に女性が入り易くすることが男女平等ではない。
本当にもっと真剣に考えて欲しい。
男女協働社会化よりも、子供がいつでも親を頼れる社会の構築を。
”33歳 妻一人 子二人” [一般]
結婚して6年。
無事に一男一女を授かることができ、私、妻を含めた4人の家族は、この6年間、大病や事故に見舞われることもなく生き抜くことができた。
そして、この6年間で私が何よりも痛感したのは、子供達の笑顔は何よりも尊く、そしてかけがえの無いものだということである。
「長生きなんかしなくても良い。」
「先に逝かれたら寂しいから、お前より先に死ぬ。」
「楽に死ねるなら死にたい。」
辛い時、悲しい時、もしくは笑い話で、軽はずみに言ってしまいそうな言葉を思い浮かべてみた。
しかし今、”33歳 妻一人 子二人”の私は、口が裂けてもこんなこと言えない、と感じている。
何故そう感じるようになったのか、家族に対する責任感から、、、と言いたいところだがそんな綺麗な理由ではない。
もっと単純な理由。
このかけがえなの無い笑顔を見れなくなる、触れられなくなる、感じれられなくなる、その事に対する恐怖心が私にそう感じさせているのだ。
一方、33歳という年齢も関わっている。
私の父方の祖父は私が生まれる直前に他界した。享年73歳であった。また母方の祖父も65歳で他界した。
もし私が母方の祖父と同年代で死ぬとしたら、私は既に人生の折り返し地点を過ぎており、父方の祖父と比べてももうすぐだ。
それに気が付いた事も、私が自身の死を何よりの恐怖と感じるようになった理由の一つかも知れない。
今の私が想像する死と現実の死、そこにかなりの相違があることは否めないだろう。
しかし敢えて、それを活字に置き換えると、
「絶望と苦しみの中での終焉」
こんなネガティブな表現しかできない。
何故、私がこのようなネガティブな表現で死を表すか(もしくは、このようにしか表せないのか)と考えると、
「折り返し地点を過ぎたかも知れない。」
と感じる反面、
「もしかしたらまだ四分の一かも知れない。」
と思う気持ちが強くあるからであろう。
大変失礼な事を書く。
今、60歳の方は限りなく100%に近い確率で人生の折り返し地点を過ぎている。
今の私には判らない(判ることができない)が、もしその気持ちを理解できたら、”死=苦”が変わるかも知れない。
そして、「死の覚悟」ができるかも知れない。
生あるものは必ず死する。
生まれた瞬間から死への第一歩を踏み出している。
子供が寝返りを打った、座った、立った、歩いた、話せるようになった、字を読めるようになった・・・
親は子供が死に向かって着実に成長していることに喜びを感じている。
それは自分が先に逝く事を知っているからか、もしくは死を全く意識させない存在だからか。
無論、後者であろう。
(一般論として。しかし私は今、前者について思慮を深めている。)
では子供の成長を考える時、死を意識する必要は無いのか。
答えは幾通りも考えられるが、今回は死を単なる事象と捉え、それ以上の意味を持たない狭義の意味で、無いということにする。
そう考えられるのであれば、生は死へのスタートラインでは無く、次の何かへのスタートライン。
即ち母親の体内から外界に出たのは泣くまでのスタートライン、泣いたのは初めて乳を飲むまでのスタートライン、乳を飲んだのは初めての・・・、
そしてそれは、尻取りのように最後の”死”というキーワードにたどり着くまで続けられる。
※途中、意図的もしくは不慮のルール違反がなければ。
不幸にして非常に短い期間で死という言葉にたどり着いてしまうこともある。たどり着いている、という意味は、そこにルール違反は無かったという意味だ。
しかし、言葉のあやかも知れないが、長くても、短くても、人生という言葉に変わりはない。
長短に関わらず、そこにはいくつものスタートラインがあり、そして終りがあるはずだ。
終りがあるから頑張れる、始められる。
終りがあるから幸せを感じる。
終りがなければどんなに気持ちの良い事でも幸せに感じない。
だとすると、死は幸せを感じるための必須条件。
言い換えると死を以って幸せを感じる。
それが性である以上、それが運命である以上、そしてそれが自然である以上、いつか受け入れる覚悟をしなくてはならない。
今、私は速やかにそれを受け入れることができない。
が、しかし、受け入れる覚悟の形成は、その半分以上を時間がしてくれるものと思っている。
ならば半分以上と言わず、そのほとんどを時間が形成してくれるよう、長く生きる方法を考える。
もしかするとそれが人生なのかも知れない。
とりあえず、酒とタバコについて再検討の余地がありそうだ。
リスペクト [気づき]
先日、久しぶりに数人の旧友と席を共にした。
みんな、3年以上ぶりだったので、”今、何している話”と”昔話”で大いに盛り上がった。
生活環境はそれぞれ全く違う状況であったが、改めてみんな頑張っている、自分ももっと頑張らなくては、と思わされ、とても良い刺激になった。
そして私は、
この人達と出会えて良かった。
この人達を知らない人に紹介したい。
これからも、この人達と友人であることを誇りにしたい。
という衝動に駆られた。
人生、色々な人に出会える。
リスペクトできる人にどれほど出会えるかが、自分を高める手段の一つかもしれない。
しかし、リスペクトできる人に出会えても、それに気が付かない、気づこうとしない、ということがままある。
例えば、
「勉強なんてできなくても良いんだよ。」
「足なんて早くなくて良い。」
「バレーボールなんて、下手だって別に良い。」
なんて事を言ってしまうことがある。
これを言えるのは、世界で一番になった人だけ。
世界で一番になった人だって、できれば言わない方が良い。
つまり、勉強ができないのに、「勉強なんてできなくたって良い。」なんて言ったら格好悪いだけ。
できて言わなきゃ。
言い換えると、勉強ができないという自分の短所を価値のないものと位置づけ、せっかくリスペクトできる勉強のできる人の事を見逃してしまっている。こんな勿体無いことはない。
また、「自分と気が合う人は素晴らしい。」という世界観を作り、遠まわしに自分の行いは素晴らしいと納得しているケースがある。
まぁ、それはそれで良いのだが、かなりせまい世界でしかリスペクトできる人に出会えない可能性があるので要注意だ。
※実際、このような世界観を持っている人が私の知人にいるが、その人は非常にストライクゾーンが広く、大抵の人と気が合うので、結果オーライといったところか。
今、私は女子中学生にバレーボールを教えている。
彼女達には一人でも多く、リスペクトできる人に出会って欲しい。
できれば、指導に当たっている私も、彼女達がリスペクトする対象になり、彼女達の成長に少しでも役立てばと思うが、なかなか望んでできることではない。
人に尊敬されるより、多くの人を尊敬する方が、能動的に行動できる分だけ簡単だ。
私が彼女達を尊敬し、また私が尊敬する人を彼女達に紹介し、そして多くの人を尊敬する事の楽しさを伝えていければと思う。
そしていつか、多くの人が多くの人からリスペクトされる世界を築けば、武力による抑止力は不要になるかも知れない。
八百長相撲 [時事]
連日、八百長相撲の真否、及び裁判の内容についてワイドショーやニュースで取り上げられているが、八百長という言葉をネット辞書で調べると次のように書かれていた。
「八百屋の長兵衛(通称八百長)という人が相撲の年寄某とよく碁を打ち、適当に勝ったり負けたりするように手かげんをしたことから出た語という〕 勝負事で、真剣に争っているように見せながら、前もって示し合わせたとおりに勝負をつけること。なれあい。いんちき。」
親切に語源まで書かれているが、今、私達が使っている八百長という言葉(特に角界の八百長問題で)の意味と少し違っているように思われる。
語源になった事象は、八百屋の長兵衛さんが年寄某さんのご機嫌をとるために(理由は他にあるのかも知れないが)、碁を打つ際、時々、手を抜いて負けたというものだ。この場合、八百屋の長兵衛さんの相手である年寄某さんは、わざと負けてもらっていることに気が付いていない。(と、思われる。)
つまり、これは八百屋の長兵衛さんが勝手にやったことで、勝敗の結果は事前に二人で決められたものではない。
それに対して、角界の八百長問題では、対戦する力士の間で勝敗が事前に決められている、と疑われているのだから、やや八百屋の長兵衛さんの事象とは異なる。
八百長の語源と実際に使用する際の意味についてはこれくらいにして、八百長と無気力相撲の違いについて考えてみたい。
この件は、裁判でも取り上げられていたが、前理事長さんの回答は非常に難解且つ奇奇怪怪なものであった。報道等でこの話を聞いていて、頭の周りにクエスチョンマークが10個くらい浮かんだ方が多いのではなかろうか。
前理事長さんの言い分では、無気力相撲とは怪我や病気で力が出ない状態の事らしい。
確かに、膝や足首にテーピングをぐるぐる巻きにしている力士が、土俵際に追い詰められて力なく寄り切られるシーンを見たことがあるような気がする。しかし、それをみたファンは、どう思うか? 無気力相撲と思うのか?
おそらく、
「○○関は膝が悪いから土俵際で踏ん張れなかったんだろうなぁ。早く治ってくれれば良いなぁ。惜しいなぁ。」
ぐらいだろう。
そこに、無気力相撲がどうだこうだという発想は、普通の感覚であればないと思われる。
怪我や病気で力が入らないという状態は、決して無気力という状態ではない。ましてや故意だなんて言われたら、それは力士だけでなく、全競技の選手に対する侮辱だ。気力と責任感、更には自分が背負う何かのために、怪我を押して土俵に上がっているのに無気力だなんて。
前理事長さんは何か勘違いされているのだろう。おそらく裁判の緊張感から出てしまった言葉だと思われるが、深みにはまる前に訂正することをお勧めしたい。
私なりに八百長と無気力相撲の定義を考えてみた。
①八百長
勝敗が、事前に対戦する二人の間で決められている。
そこに金銭の授受があれば、より確実。
②無気力相撲 PartⅠ
勝敗は事前に決められていない。
対戦するどちらか一方が、何らかの理由により本気で相撲をとりたくなくなり、粘らない状態。
粘らない状態とは、
”楽に勝てるかもしれないから、とりあえず勝負はするが、追い詰められて粘ったら疲れるので、勝負をすぐにあきらめる状態”
と定義しておこう。
③無気力相撲 PartⅡ
勝敗は事前に決められていない。
対戦するどちらか一方が、相手の事を考えて、手を抜いて負けてやる状態。
力士同士だって、友達関係である等、色々な人間模様があると思われる。
その中で、例えば相手の生活環境の事を考えて、自分が少々のデメリットを被っても今回は譲ってやろう、、、なんて思って、負けてやることもあるかも知れない。
要するに、八百長と無気力相撲の違いは、事前に対戦する二人で勝敗を決めているか否かにあると考える。
(相撲協会には無気力相撲を取り締まる制度・委員会及び罰則があるらしいが、今日までに無気力相撲で罰せられた力士はいないそうだ。)
力士として、八百長だろうが無気力相撲だろうが、許されるべきではないと思う。しかし年に六場所もこなす力士だ。時々、疲れて力が入らない事もあるだろう。
我々、サラリーマンだって年に何日かは仕事中に無気力な日がある。
ただ、その無気力が続けば、サラリーマンでも力士でも自ずと評価は下がるはず。
(力士の評価は協会内での評価という意味よりも、ファンからの評価という意味を重んじたい。)
色々考えて、もし本当なら、やっぱり八百長相撲は絶対にダメ。
(無気力相撲は、、、人間のすることだからなぁ。正直、理解できる部分もあるんですよね。という事で、無気力相撲の正否についてはお茶を濁させていただきます。)
なぜなら、その勝敗に携わった二人が、双方共に金銭的もしくは角界内での利益(結局これも金銭的な利益)を得ているのだから、ファンを裏切った行為と言わざるを得ない。
これを一般企業の取引で考えると、正しいやり方であればwin-winの関係、正しくないやり方であれば談合。
八百長相撲の場合は、win-winというよりも談合っぽい感じが否めない。
CSR(Corporate Social Responsibility)=企業の社会的責任
もし八百長相撲が本当なら、相撲協会には、協会としての社会的責任を良く考えてもらいたい。
高校生 [気づき]
高校生というと、子供から大人への過渡期。
一つの教室の中に、どちらかと言えば大人側の人間と、どちらかと言えば子供側の人間が入り混じる。
(この大人側、子供側という表現が必ずしも適切ではないと思っているが。)
判断に困るのが、酒を飲み、タバコを吸い、遊びを知っている、そんな高校生をどちら側の人間にするかだ。
時としてこのような高校生は、他の高校生からの羨望の的となることもあるが、反社会的行為をしていることに違いは無く、羨望の的どころか警察に補導されることもある。
いずれにしても、ちょっと変わったことをしている、アウトローな生き方、白か黒かと言われたら黒、そんなものに憧れる時期ではある。
批判的な意見も多いだろうが、私は率先してこのような行為をしている高校生を大人側に入れ、それについて行っている高校生を子供側に入れたい。
そういう意味で、私の高校時代は本当に浅はかであった。強いと思っているだけで弱い。本当は弱いことにも気づいているのに、見栄を張って背伸びする。そんな事を繰り返していた。
先日、高校生を対象としたクイズ番組が某局でオンエアされた。
とても信じられないくらい頭が良い。知恵がある。物を知っている。30代の私の脳なんて、彼らにとっては幼稚園児くらいであろうか。本当にすごかった。問題が難し過ぎるせいか、回答の後の解説がないという最近にしては珍しいクイズ番組だ。
(結局あの番組は、視聴者に対してはクイズ番組ではなく、難題を解いていくスーパー高校生のドキュメント番組なのだ。)
しかしクイズにもまして興味深かったのは、勝者、敗者のコメントだ。
スーパー高校生が急に普通の高校生に戻る。
オンエアされている部分だけでも、敗者に配慮しない勝者、敗北を受け入れられない敗者、その他諸々・・・、随所に見受けられた。
(もちろん、しっかりとしたコメントを残すスーパー高校生も多くいたが。)
一方、甲子園球児を代表とする高校生アスリートのコメントはしっかりしている。
謙遜の美学を追求した素晴らしいコメントが多い。
(格闘技の選手はそれを見失っている人が多いが、あれは一つの演出なのでOKにしよう。)
部活動には普段の授業にはない厳しさ、恐怖、楽しさがある。
先輩後輩の上下関係、偉大な顧問、各部活独自の規則、厳しい練習、それらを経て試合に臨み、喜びを感じたり悔しさを感じたりする。そしてそれを何回も繰り返し、人格が形成される。
その点、授業を受けているだけだと、まず厳しい上下関係はない。勉強は一人でもできるし、その勝敗たる試験は常に個人戦だ。一緒に勉強することはできるが、試験で団体戦をすると、それはカンニングという行為になり、0点になってしまう。
現在、もしくは将来の日本政財界を背負っていく多くの人が、この2タイプの高校生の内、どちらであるかは想像にお任せするところであるが、この両方を兼ねそろえている人が、その中でもトップになるのだろう。
今の私は、高校生の自分を思い起こし、浅はかさを感じている。
そして、今の自分を見ても、さして変化のない浅はかさを改めて感じる。
そんな私が、今の高校生に物申すこと自体、間違っているのかも知れない。
私は大人になりきれない子供だ。そして他にもそのような人は多くいる。
平均寿命が80歳前後になった今、本当の私の成人式はいつ迎えられるのだろう。
そして本当の大人って何なのだろう。
まだまだ平均寿命まで先は長い。色々な高校生、もしくは小・中学生を見て、大人と思われる人と何が違うかを見極めていきたい。
目の前にあるものを見るということ [気づき]
そこで問われるのは、優先順位を適切に判断できる人間であるかどうかだ。
優先順位が適切に判断できず、全てが中途半端な状態であると、アウトプットが無くなり評価の土俵にすら上がれなくなる。
傾向として、物事を深く考える人間ほど、この状態に陥るケースが多いように感じるが、それを捨てる必要はないし、捨てた方が良いとも思わない。むしろ大切にすべき事の一つだと思っている。
都合の良いことを言うようだが、深く考えることもできる人間になれば良い。
しかし、それは強制されるものではないし、逆にどちらかに偏っていたいと考える人も多くいるだろう。
そしてそれも、問題ない。
深く考えることしかできない人は、研究者になれば良い。
深く考えることができない人は、身体を使い、利益を追求すれば良い。
自分の性癖に合った生き方が必ずある。
だが、どちらかに偏っていて、且つそのことを悩んでいる人も多くいる。自分の性癖と今している事がミスマッチなのだろう。
線路を眺めて欲しい。
先に行くに従って、2本のレールの幅はせばまっていくように見える。メジャーで測れば、線路の幅はどの地点でも変わらないが、自分の目には、先の方がせばまって見えている。
目の前に見えているものが必ずしも正しいとは限らない。
しかし線路の絵を描く時、「これが本当なのだから。」と言って、手前も先も同じ幅で描けば、その評価は下がる(だろう)。
「長い線路をどうやって同じ幅にキープしているのだろう?」、「どういう技術を使っているのだろう?」、「どんな構成の金属を使っているのだろう?」、「どうして自分の目には先の方がせばまって見えるのだろう?」
深く考えることは大切な事。
しかし、目の前にある線路を先がせばまっていくように描ける事も大切な事。
この2つに優越は無い。正解、不正解も無い。
ただ、そのことに気づくために線路を眺めて欲しい。
頓着 [気づき]
インターネットの辞書では
「深く気にかけてこだわること。執着すること。」
とある。
最近、色々なことに頓着がない。
お洒落に昔ほどの興味がない。
髪型も短くて楽な方が良い。
流行の歌手をほとんど知らない。
特別な趣味もない。
中学校の時にはじめたバレーボールも、プレーヤーとしては今でも頑張っているが、オリンピックのバレーボールの結果には全く興味がない。
何事にも無頓着。
プライベートでは、ほとんどの事について頓着するか否かは自由であり、強制されない。
頓着しないが故に、その部分に対して無知無能になるが、大きな問題はない。
色々な事に頓着し知識を増やした方が、人間としての面白味が出るとは思うが、それも個々人の自由だ。
しかし、これが仕事になると変わる。
仕事では、与えられた任務に対して頓着せざるを得ない(と、私は思っている)。
私自身、これだけ無頓着な人間でも仕事には頓着しているつもりだ。
頓着することで、仕事の内容を理解し、責任を感じ、最終的に結果を出す。
当然の事のようだが、これが仕事をするに当たって最も大切な事であり、そして実は非常に難しい事なのではないかと思う。
指示どおりの資料を作成する、経済や法律の事を勉強して知識を増やす、言われたことを正確に人に伝える...etc
これらの事ができるだけで、仕事ができると勘違いする人がいる。
しかしこれらの事は頓着がなくてもできる。頓着がなくてもできるのは仕事ではない。
頓着するということは、これら一つ一つの行動に対して自分の考えを持つということだ。
そういう意味で、仕事に対して無頓着な人は多い。
前述の、「指示どおりの・・」ということだけで仕事をしたことになるのなら、仕事は人間以外のもの、例えば動物やコンピューターに任せた方が良い。
コンピューターは勝つために必要な情報を大量に持っていて、自分が勝つために最良の一手を打つ。
しかしまだ、コンピューターは勝つことに頓着していない。その時々の最良の一手を知っているだけだ。
人間は自身が生きる事と種族保存以外の事に頓着できる唯一の動物であろう。
その意味を我々は良く考えなくてはならない時を迎えているのかも知れない。
ストライクゾーン [気づき]
年齢を重ねるに連れて、素敵に見える女性の幅が広がったように感じている。簡単に言うと、ストライクゾーンが広がったのだ。
では、どうして私のストライクゾーンが広がったのか、ということを分析してみたい。
(飽くまで男性である私が行う分析である。)
はじめに、年上は何歳までOKか!? という質問をする。
う~ん、10歳くらいまでかな、、、、(賛否両論だと思うが)。
このアンサーが何歳の時でも固定である事を前提にすると、20歳の時は30歳までOK、30歳の時は40歳までOKということになる。
次に、年下は何歳までOK!? という質問をする。
年下の場合は20歳を超えていればOK! こんなアンサーもあり得る。
自分が20代でも、30代でも、40代でも恋愛対象は20歳を超えていればOK!!
(まぁ、自分が20歳であれば16歳くらいでもOKかも知れないが、それ以上若いのは20歳の時でもやや問題が生じる。)
この2つの回答を整理すると、
20歳のストライクゾーン : 16歳~30歳
30歳のストライクゾーン : 20歳~40歳
40歳のストライクゾーン : 20歳~50歳
上記のとおり、一番ストライクゾーンが広いのは40歳という結果になった。
しかし、これは第一の質問の回答、つまり自分が何歳であっても+10歳までOKというのが前提だ。
30代まではそれで何とかいけるかも知れないが、40代、50代になったら、年上といっても精々5歳まで、もしかすると自分と同い年でもストライクゾーンから外れるという人も多くなるだろう。
この想定を踏まえ、もう一度回答を整理すると、
20歳のストライクゾーン : 16歳~30歳
30歳のストライクゾーン : 20歳~40歳
40歳のストライクゾーン : 20歳~45歳
50歳のストライクゾーン : 20歳~50歳
60歳のストライクゾーン : 20歳~50歳
このくらいが適当かと思われる。
(※これは良くも悪くも年齢に相応しい見た目・雰囲気であるという事が前提だ。この前提に合わない人も多くいる。事実、30代である私が、50代や60代の女性を見て色気を感じることも多々ある。)
結局、年齢が高いほどストライクゾーンが広くなるという結果になったが、ある程度いくとストライクゾーンの広がり率は鈍くなる。最も伸びるのは、20歳のストライクゾーン(幅14年)から30歳のストライクゾーン(幅20年)の時で、一気に6歳分幅が広がる。
この時こそ、一番楽しい時だ!
素敵な異性が急に増えたような錯覚を覚える。街を歩いていたら、可愛い人・格好いい人・色気のある人ばかりだ。
”アンチエイジング”、最良の薬は美意識と恋心。後者は既婚者にとってやや問題有だが、憧れたり、素敵だと思うことは勝手だ。
結果、最もストライクゾーンの伸び率が高くなる30代は老けない!!
私は実年齢18歳で見た目年齢28歳と言われた。その時は、28歳になったら28歳の見た目でありたいと思ったが、28歳になったら35歳と言われた。しかし心配は要らない。最も多感な時期を迎えた私は、30代の内に見た目年齢を実年齢が追い越すことだろう。
そして、実年齢が見た目年齢を追い越した頃、私は最もストライクゾーンの広い時を迎えるのだ。
偽 [気づき]
”人の為”と書いて偽。
漢字の成り立ちは、その構成によってほぼ判るものであるが、改めてこの「偽」という字を見ると、人間の性を見事に表している。
人の為に何かをしてあげよう、それは偽だ。
例えば、友人の結婚式で余興をする。
結婚式を盛り上げるために、一生懸命練習する。
が、その本音はどうかな!?
自分が目立ちたい、楽しみたい、そういう気持ちの方が大きいのでは?
結局、友人の為、、、これ半分、残り半分は「自分の為」。
では、ボランティアで難民や被災者の救援に行っている人。
これは100%他人の為でしょう!?
いや、違う。
ボランティアをしているという自分に酔っている、もしくは、俺はこれだけの事をやった、と自分を称え、納得している。やはりそこには「自分の為」が含まれている。
私が慈善行為を単なる自己満足であると卑下しているように思った人がいるかも知れない。
しかし、それは全くの誤解である。
私は、決して慈善行為を卑下していないし、否定もしていない。
むしろ、人の為に何かをした、という自分に酔い、自己満足を覚えることが最も正しい道だと思っている。
よく考えてみよう。もし自己満足で終わらなかったら、
「おい、○○の難民、俺達のボランティアのおかげで、生活が少し楽になったろ。肩でも揉め!!」
なんていう醜い行為になってしまう。
何かをして、見返りを期待してはいけない。見返りを期待しないで何かをするためには、自己で満足する方法、あるいは結果を見出すしかない。
それであればどんな形でも良い。
頑張った自分を称賛する。
上手そうに飯を食っている難民の姿を見て感動する。
子供にサッカーを教え、上手くなったのを見て、自分の指導が良かったのだと勝手に思う。
それで良い。自分が”いい気持ち”になる。が他には何も望まない。
自己満足をする為に、人の為に何かをする。
そう、純粋に人の為、なんてことはこの世にないのだ。「人の為、人の為」と言いながら、そこにやりがいを感じたり、満足を得ているのは自分だ。そう考えれば、やはり人の為は偽りだ。
自己満足で良い。見返りを期待せず、自分のできる事をやれば良い。
その中身が自分の価値として他人から評価される。しかし良い評価をされることを期待してもいけない。
一つだけ許されることは、自分で良い評価をし納得することだけだ。







